西田宗千佳のRandomTracking

第382回

ソニーの復活と平井体制の終幕。平井一夫を追った15年

カズ・ヒライと私

CEO退任を発表するソニー平井一夫 社長 兼 CEO

 平井一夫氏がソニーの社長を退任し、4月1日から会長に就任する。中期経営計画の達成と過去最高益を節目に、ソニーの平井体制は終幕する。

 思えば、平井氏を取材するようになってから、もう15年以上が経過している。彼がなにをやってきたのか、そしてどんな人となりの人物だったのかを、振り返ってみたい。

 就任当時、平井氏にソニー復活を大きく期待する声はそう大きくなかったように思う。多分、「ゲーム部門から来た人、それも技術畑でもエレキ畑でもない人がソニーの社長になってどうするの」的な印象だったのだろう。

 筆者も100%の確信をもって、平井ソニーが成功する、と思っていたわけではない。だが、ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時。以下SCE。現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の頃からおつきあいがあった筆者としては、「ああいう人だから、意外や意外、面白いことになるのでは」と思っていた。あんまり周囲に同意してくれる人はいなかったが。

 その「ああいう人」という部分を、少し語ってみたいと思う。

カズ・ヒライから「平井一夫」へ

 自分が平井氏を最初に明確に意識したのはいつだったろうか。たぶん、2003年だ。その頃平井氏は、SCEのアメリカ法人であるSCEアメリカ(SCEA)のトップだった。日本にはあまりいらっしゃらなかったので、当然、日本で取材したわけではない。E3のプレスカンファレンスで、SCEAのプレゼンテーションをする、ものすごく英語のうまい日本人……という印象だった。まだ直接取材はできておらず、プレゼンを一方的に見る、という感じだったが、私にとって、その頃の平井氏は「平井一夫」ではなく、「カズ・ヒライ」だった。

 そのカズ・ヒライを「おお、この人なんか面白いぞ」と思ったのは、2006年のE3だったと記憶している。このE3では、PlayStation Portableに初代PlayStationの互換機能が搭載されることが発表されていた。その時にカズ・ヒライが壇上で発したのが、かの有名な「リーッジ・レイサー!」というシャウトだ。PS1用のゲームタイトル「リッジレーサー」がPSPでそのまま動く……ということを、ゲームのオープニングコールを模して表したものだが、あまりにそのインパクトが大きかったこともあり、ゲームファンの間ではこれ以降、「リッジ平井」の愛称で呼ばれることも増えたようだ。

 あの時筆者が思ったのは、「こういう外連(けれん)のあることを、サラッと壇上でできる人がトップだと、映えるなあ」ということだった。そういうことが出来るエクゼクティブは意外といない。特に日本ではそうだ。平井氏は幼少期より海外経験が長く、そうした経験から醸し出されるものもあるのだろうが、「映える」ことを意識して、自身が動いていた部分もあるのだろう。

 平井氏はルックスが良い。良質なスーツやシャツ、高級時計を身につけた振る舞いも絵になっている。このことは、ここ数年のソニーにとってプラスだったはずだ。

 一方で、そのことは平井氏がかなり「意識して」やっていたことのはずである。なぜなら、最初に平井氏を「カズ・ヒライ」としてステージの下から見ていた時、彼はもっと……なんというか、太っていたからだ。だいぶアゴの輪郭も丸く、今のシュッとした感じとは違う。

 しかし、2006年頃には、もはや「丸いカズ・ヒライ」の面影はなかった。スリムで洗練された物腰をもつ、今の「平井氏」になっていた。

 後に聞いたところによれば、食事や運動などに相当の節制を行ない、体型と振る舞いを自らコントロールした結果であるという。ソニーの社長になってからもそれは続き、夜には一切炭水化物を採らない。早起きして体を動かし、毎日可能な限り規則正しい生活を心がけている。

東京スカパラダイスオーケストラと共演する平井氏(2017年)

実は「マニア」で「努力の人」

 洗練された振る舞いとエクゼクティブたる努力。いかにも「シュッとした人」然としたカズ・ヒライ。

 個別インタビューを重ねるまで、私もそう思っていた。要は、「こっち側の人じゃない」と感じていたわけだ。筆者は仕事柄、技術屋さんとの付き合いが多い。技術屋さんはたいてい「こっち側」の人であり、議論を始めると止まらないタイプの人が多い。SCEでいえば、久夛良木健さんはまさに「こっち側」の人だった。コンピュータとハイエンドオーディオとスポーツカーをこよなく愛する趣味人であり、歯車がかみ合って話し始めたら止まらない。

 じゃあ平井氏はどうなのか?

 実は、見事なまでに「こっち側の人」だったのだ。

 最初にロングインタビューをしたのは、たしか、2007年にSCEのグループCEOになった直後、E3でのことだったと思う。

 インタビュールームに入り、広報担当者に飲み物を勧められた私は、思わず「レッドブルを」と言ってしまった。部屋の片隅にレッドブルが多数おかれているのが目に入ったからだ。E3取材は過酷だ。疲労も出てきたと自覚していたので、レッドブルを飲みたい、と思ったのだ。その頃、レッドブルは日本に入ったばかりで、今のように大規模展開はしていない。筆者にとっても「アメリカで疲れた時に飲むもの」というイメージが強かった。

 レッドブルを、と言った瞬間、平井氏は破顔して手を差し出してきた。

「仲間ですね! レッドブル、私も大好きなんですよ!」

 そういう平井氏の手にはレッドブルが。その時は正直、「わ、この人、こんなにジャンクなものを好むんだ」と意外に思ったのを覚えている。今も、レッドブルは平井氏の好物のひとつだ。ただし、昔は砂糖入りの「青い缶」だったのが、ノンシュガーの「水色の缶」に変わっているが。

2007年のE3でインタビューに答える平井氏。当時SCE 代表取締役社長兼CEO

 インタビューの最中、平井氏はよく、自分の趣味について語った。カメラが好きで、取材中に筆者が使うカメラに食いついてくる。ソニーの一眼レフが今ほどラインナップが揃っていなかった頃はニコン党だったようだが、今は自社のデジカメに愛着を注ぐ。自転車にも並々ならぬ愛情をもっており、ある日筆者が着ていた某ロードバイクメーカーのTシャツを見つけ、「お、あれ、乗っているんですか」と取材そっちのけで盛り上がったこともあった。こんなマニアックなTシャツをめざとく見つけるか!と、心底驚いたのを覚えている(トップ企業の社長に会う時Tシャツはどうなんだ……というツッコミはご容赦願いたい)。

 筆者が自動車に乗らないのでそちらの話題では盛り上がったことはないが、自動車好きの記者とは、スポーツカー談義で盛り上がることもあったという。

 なんのことはない。平井氏も「こっち側」の人なのだ。自分の武器としてルックスや立ち振る舞いを活かし、洗練されたスピーチを行なう。だが、実に「マニアな人」であり、モノに対するこだわりが濃い。そのこだわりは付け焼き刃のものではなく、本質が「マニア」なのだ。

 その上で努力して、エクゼクティブとして振る舞うのが、私の見る「平井一夫」という経営者の、ひとつの姿だ。

 平井氏はプレゼンが上手い。ただ上手いのではなく、失敗した時のリカバリーが上手い。機器が動かなくても動じず、サッとジョークを交えて次へ行く。

「ああいうトラブルは、いきなり起きるのではなく『いつでも起きうる』もの。なので、それにいつも備えて考えてるんですよ」

 平井氏は筆者にそう語ったことがある。この辺も「努力の人」平井一夫らしい。

「ゲーム」への投資をぶらさないことが平井ソニー成功の秘密

 エクゼクティブとしての平井氏の出番は、SCEのCEOになった頃も、ソニーの社長になった時にも「困難からのターンアラウンド」であった点が共通している。

2009年のE3でPS3をアピールする平井氏

 SCEのCEOになった時には、PlayStation 3が出足で躓き、ロケットスタートを決められず、赤字に苦しんでいた時だった。ソニー社長に就任した時にも、ソニーは赤字体質に苦しみつつ、財務体質の改善がうまく行なえていなかった。

 どちらの場合にも、平井氏が採った手法は共通している。黒字化のために必要な部分に戦略を絞り、社内外へのメッセージをシンプルなものにし、企業としての体質改善が成功したのちに反転攻勢に出る、というものだ。正攻法ではあるが、その実現を徹底したことが大きかったのだろう。

 SCE時代には、PS3についてのメッセージングと戦略を絞ることから始めた。PS3は汎用的なコンピュータとしての可能性を見据えて開発されたものだったが、それゆえに販売のメッセージングもコスト構造も、ゲーム機のビジネスから逸脱した部分があった。そこでの「ふらつき」を止め、「まず第一に、PS3はゲーム機である」という基本的な部分に戦略を絞った。ハードウエアのバリエーションをシンプルにして、PS1以降続けてきた「普及に応じて安くなる価格弾力性モデル」に戻し、マーケティングメッセージもシンプルな「ゲーム機」とした。

「私がSCEのCEOになった時(2007年)、『PS3はまずゲーム機ですよね』というメッセージを明確にした。でもその後、今(2008年)は『でも、PS3はゲーム機で始まって“ゲーム機だけ”で終わるようなものではないよね』という点を打ち出そうとしている」

PS3と平井氏

 2008年に平井氏を取材した時、彼はそう言った。ゲームを多数のメーカーから出してもらえるよう、普及台数や開発環境を整えることが第一義であり他はその後、という明確な戦略が見える。

 その後の「ノンゲーム戦略」は、PS3企画時よりも地味になったであろうことは想像に難くない。だが、テレビソリューションの「トルネ」などの成功もあり、そこにはなにも生まれなかったわけではない。

 単純にブレーキを踏み続けたわけではない。特に積極的な投資を続けたのが、独自のネットワークサービスである「PlayStation Network(PSN)」だ。PS3世代以降のゲーム機には、この種のネットワークサービスが必須ではあったが、ソニーにとって、ネットワークサービスの構築は難題続きであり、PS3時代初期には完全な「金食い虫」だった。使い勝手の点でも、先行するマイクロソフトの「Xbox Live」に劣る部分があった。

 そんななか降って湧いたのが、2011年に起きた、PSNへの不正アクセス事件だ。個人情報の大規模流出も起きてしまった。平井氏は発生発覚直後である2011年5月1日に会見し、自ら原因と解決策に関する説明を行なった。

PSNへの不正アクセス問題では謝罪も

「ソニーにネットワークサービスは鬼門」、そう思った記者は、この時少なくなかったように思う。トラブルを抱えながらもこの部門に投資し続けることに批判的な声もあった。

 だが、平井氏の姿勢は揺るがなかった。PSNの改善と投資に対する姿勢は変えず、その後、ソニーの社長となっても支援を継続した。

 現在、PSNはソニーの稼ぎ頭になっている。PlayStation 4が世界的にヒットしたことが理由だが、PS4から生まれる収益を底支えしているのは、PS4から本格展開したPSNの有料サービス「PlayStation Plus」から生まれる収益であり、ゲームのダウンロード販売比率が高まる今、PSNからの収益は当面増え続けるだろう。

 現在、PS4は全世界で7,360万台が販売され、PlayStation Plusの有料会員数も3,150万人と、巨大な規模になっている。

 PS4が発売された2013年当時、家庭用ゲーム機のビジネスは「もはや斜陽である」とみなされていた。新型ゲーム機の開発と市場立ち上げには大きな投資を必要とする。PS3に比べ、PS4はコスト的に絞った上でスタートしたゲーム機ではあったが、それでもリスクがあったことにかわりはない。当時は「それに比した売上が見込めるのか疑問」という声すらあった。

 だが、SCEはそれをやった。PS4発売時、平井氏はソニーの社長となっていたが、当然、この計画を後押しする存在であったことに違いはない。PSNを死守したこと、PS4への投資に積極的であったことが、現在のソニーの高収益に大きく影響している。

 正直なところ、PS4の成功は、SCEが当初計画したものよりも大きく、好調な形で推移しているのだろうとは思う。それでも、この市場で「メッセージを絞って戦う」戦略をSCEに徹底させたことは、平井ソニーの命運を左右した。

難しい家電の世界で「価値を追う」戦略に

 ソニーの業績は回復したが、それでも「ソニー復活」とは思わない人々が多くいる。その気持ちは、筆者にもよくわかる。個人向けの機器で、劇的なヒット商品の姿が見えづらいからだ。筆者は、PS4の成功がそれに匹敵するものだと思うのだが、この辺は、日本ではゲーム機というビジネスがいまだ元気がなく、「ウォークマン」や「ハンディカム」のようなイメージを持ってもらえていないのだろう。

 こうした点は、平井氏もかなり意識していたようだ。ことあるごとに「ソニーはコンシューマエレクトロニクスの会社」と発言したのは、ソニーというブランドの寄って立つ場所、支持の基盤が「個人向け商品への評価」である、ということを強く意識していたからに他ならない。イメージセンサーで高収益を上げようと、金融ビジネスが安定的経済基盤を確立していても、「ソニー復活」はコンシューマエレクトロニクスのヒットにかかっている。

 だが、今の世の中、昔のウォークマンのようなヒットを出すのは難しい。当初復活の旗頭として挙げた「スマートフォン」「タブレット」が世界市場ではうまくいかなかった以上、別の手段を採らざるを得ない。

 だから、彼は「着実に高付加価値製品を育てる」戦略を採った。平井氏の言う「規模は追わず価値を追う」やりかただ。カメラのブランドイメージを統一し、製品のパッケージの質を改善し、低価格製品よりも中規模以上の「ちょっと付加価値のある製品」を重視した。このことは、利益率の向上に加え、ブランドイメージの改善・定着にプラスに働いた。特に、自身がマニアックなこだわりを持つカメラには、かなり厳しい目で意見を出したようだ。RXシリーズが「デザインを大きく変えず、機能をアップしてラインナップを増やす」戦略を採っているのも、平井氏の発案がベースになっていると聞いている。

 それでも、「誰もがわかる大ヒット製品」を生み出せなかったことは、平井ソニーの限界かも知れない。特にスマートフォンの商品性や技術改善は、もっと早い段階でなにか出来たのではないか、と筆者も思う。ソフトウエア品質や投資の面で、もっと改善の余地はあったはずだ。だが、こうした問題は、今の家電業界が直面する課題でもある。その環境でも「負けない戦略」を採ったのが、平井氏のやり方の特徴だ。

平井ソニーの本質は「チャレンジと責任」にあった

 最後にひとつ、筆者が感じる「経営者としての平井一夫」の本質を紹介しておきたい。

 現在のソニーの戦略の軸は、ROI(投資利益率)とROE(自己資本利益率)の重視にある。これは、平井氏と、次の新社長である現・CFOの吉田憲一郎氏が中心になって定めたものだ。オペレーションの詳細は吉田氏が検討した、とも言われており、「吉田氏が舵を切っていた」という人までいる。だから、次の社長として吉田氏が指名されたことに、筆者は違和感がなかった。

ソニー 平井一夫 社長 兼 CEO(左)と新社長 兼 CEOに就任予定の吉田憲一郎CFO

 では、平井氏はなにもしなかったのか? もちろんそうではない。平井氏は「判断し、最終的に責任をとる」立場に徹したのだ。

 新規事業プロジェクトである「シード・アクセラレーション・プログラム」について平井氏に取材した時、彼はこう答えている。

「あんまり知らない上の人々が出てきても、現場が萎縮する。だから彼らに任せて、我々は見守る。しかし、彼らには『なぜそれをやるのか』『なぜ投資の価値があるのか』を自分で考えてもらいたい。そして、その結果にも責任を持ってもらいたい。さらに上の、ソニーの行方に関することには、私たちが責任をもってあたる」

 判断すること、そしてそれに責任を持つことに、平井氏はこだわった。一方で、必ず成功を求めたわけではない。万事を尽くした上で失敗したのであれば、それはその時だ。

「売れてくれれば最高。台数的にも、商業的にも。まずその前に、ユニークな商品を、リスクをとって『出していい』ということ、そして『出すことが評価につながる』ということも言い続けている」

「レコード会社が新人を10組出したら、当たるのは2組。そんな、全部当てるような百戦錬磨のプロデューサーなんていない。だからチャレンジすべきだ」

 平井氏は何度か筆者にそう語っている。

 失敗で萎縮したソニーの体質を改善し、もう一度チャレンジできる会社にすることが、平井氏が狙ったことだった。

 そして、そこには熟慮と責任も伴う。本当に最終的に責任をとるのは社長である自分だ、という意識があったのだろう。

 近年のソニーは面白くなっていた。チャレンジ、というにはまだ小粒だったようにも思うが、それでも「白物以外を扱うコンシューマエレクトロニクスの会社」としては、6年前よりずっと元気な会社になった。それが平井ソニーの成果だ。

 2月2日に開かれた社長交代会見で、平井氏はこう発言した。

「企業にトップが複数いてはいけない。これからのトップは吉田さん。私はエンタメ・ネットワークを中心にアドバイスをしたり、エンタメ企業などの現地マネジメントとの対話を助ける。あくまで社長の補佐」

 自らの役割が終わったと感じて身を引き、後は「任せる」。これもまた、平井一夫という人物らしさだ、と筆者は感じる。

 平井さん、お疲れさまでした。好きな自転車やスポーツカーを乗り回して、少し羽を伸ばしてください。そろそろ、レッドブルがいらない生活をしてもバチはあたりませんよ。

西田 宗千佳

1971年福井県生まれ。フリージャーナリスト。得意ジャンルは、パソコン・デジタルAV・家電、そしてネットワーク関連など「電気かデータが流れるもの全般」。主に、取材記事と個人向け解説記事を担当。朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞、週刊朝日、AERA、週刊東洋経済、GetNavi、デジモノステーションなどに寄稿する他、テレビ番組・雑誌などの監修も手がける。
 近著に、「顧客を売り場へ直送する」「漂流するソニーのDNAプレイステーションで世界と戦った男たち」(講談社)、「電子書籍革命の真実未来の本 本のミライ」(エンターブレイン)、「ソニーとアップル」(朝日新聞出版)、「スマートテレビ」(KADOKAWA)などがある。
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